1:平等は望ましいか
平等の地位は低下しているか?
近年、言論の場で「平等」の地位が低下している。「戦後の平等教育が日本をダメにした」などといった政治家や評論家の言を新聞報道などで目にする機会は、かつてより増えている。「自由と平等は衝突する」などと、なぜか「自由」の方が「平等」に優越する理念であることが前提とされることも少なくない。「悪平等」という言葉があることを考えても、一般に「平等」は「自由」のようにそれ自体が価値あるものだとはみなされていないようだ。
とはいえ、「平等」という理念自体が全く望ましくない、と敢えて主張する人々はごく少数に限られる。「結果の平等」を声高に批判する人々も「機会の平等」には(時に渋々ながらも)存在意義を認めるのが常である。
概念の混乱を整理しよう
このように、平等を巡る議論が曖昧で錯綜したものになりがちな理由は、議論の当事者たちが「平等」が一体いかなる理念なのかについて必ずしも共通了解を持っておらず、何に関しての「平等」か、という点でもすれ違いを続けているためだと考えられる。
そこで、議論の見通しを良くするために、まず形式的平等と実質的平等を区別するところからはじめよう。形式的平等は平等概念そのもののことで、実質的平等は「機会の平等/結果の平等」や「所得の平等」のように「〜についての」という具体的な基準を平等概念に補ったものだと考えればよい。
形式的平等は常に望ましい
形式的平等は「異なるものをも等しく」と定式化することでほぼ過不足なく表現することができる。これは「法の下の平等」という形で言われる理念を例に考えてみればよくわかるだろう。それぞれ全く異なる人々に対して、法はそれらを等しく配慮し扱わなければならない。この理念は、法が形式的平等を満たさなければならないことを宣言している。(読者はこの用語集の「正義」の項で触れた「等しきものを等しく」という形式的正義とここでの形式的平等が実は密接な関係にあることに気がつくかもしれない。)
このような形式的平等が、およそ、国家や法が最低限満たすべきものであることを否定することは何人でも困難だろう。形式的平等をすら満たさない法や国家に対して我々は正統性を認めるはずがないからである。政治的自由の平等などは、実質的平等に立ち入るまでもなく、形式的平等によって保障される。従って、形式的な平等に関しては、「平等は望ましいか」という問いかけに対しては、確かに「望ましい」と応えることができる。
実質的平等―「〜の平等」
このように「形式的平等は望ましい」と確かに言えるにも関わらず、平等論がこのように錯綜したものになるのは、平等についての問題の核心が、実は実質的平等にあるからにほかならない。つまり、「〜の」こそが平等の中心的問題なのである。特に、その争いの中心は、課税を通じて財や所得の再分配をどのようになすべきか、あるいはそもそも再分配をすべきではないのか、という問題なのである。
2:機会の平等と結果の平等
このような実質的平等については、「機会の平等」と「結果の平等」という表現をしばしば耳にする。このイメージは、恐らく資本主義と共産主義のアナロジーによるものだろう。機会の平等は、資本主義社会におけるように人々の競争条件を等しくした上で、個人の意欲や才� �の違いによって生じる所得の格差は是認する立場(「機会均等論」)であ。それに対して、結果の平等は、共産主義社会が目指すように、所得や財の均等な再分配だと考えられている。
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資本主義と共産主義のアナロジー
社会が保障すべきは機会の平等であって結果の平等ではない、と語られるときに、そこで念頭に置かれているのは、このような素朴なイメージであろう。この場合、結果の平等は生産をしない「怠け者」にも意欲ある勤勉な者と同じ量の分配を与えるものである、として非難されるのが常である。確かに、旧社会主義諸国に見られたように、人々の意欲を反映しない分配制度の下では人々は生産への意欲を失いがちである、という指摘はおおむね妥当である。個人個人の意欲の違いを無視して「平等」に分配すれば、個人の意欲は失われ、分配するための「パイ」の大きさ自体を縮めてしまう。このような分配制度は成立するはずがないし、これを否定する平等主義者は今日殆ど存在しない。
機会の平等の問題点―能力の後� ��性
だが、ここには大きな問題が潜んでいる。「機会の平等」論者は個人の能力や意欲の差異によって生じる所得の格差は認められるべきである、と考える。この場合、能力の差異は自然にもって生まれた「どうにもならないこと」なので、それによる結果の差異は諦めなければならないとされ、時には高所得者への羨望を「嫉妬」として非難する議論すら見られる。
しかし、実際には人々の生産における能力は、先天的に決定されているものというより、後天的に獲得されるものが多い。高等教育はいうに及ばず、義務教育さえ「質の高い労働者」を生み出すための社会的制度であることを考えれば、高等教育の有無は個人の生産能力に決定的な影響を与える(「学歴」という形でシンボリックに作用することも多い)。しかも、この高等教育へのアクセシビリティは、本人の能力というより養育者の所得の多寡という、全く個人の外部にある(従って「自己責任」の取りようのない)事情によって決定されることが圧倒的に多い。親の所得が低くて、高等教育の機会がなければ、子供が高等教育を受ける機会は極端に狭められる。教育ひとつをとっても、個人の資質と意欲を反映する教育をする� �めには、所得の再分配をして機会の平等を保障する必要が出てくる。
先天的資質を受け入れる義務はない
更に言えば、自然による先天的資質も個人の選択や努力によるものではないから、それを受け入れるべき「責任」など存在しない。また、たまたま自分の資質が優れているとしても、その資質自体は自分の功績ではないのだから、その資質によって作られた物に自分が権利を有するかどうかは全く明らかではない。そもそも、「機会の平等」の魅力は、かつての身分社会のように自分のたまたま生まれた状況によってではなく、個人の自由な選択と努力によって運命を決めることができるべきだ、とするところにあるはずだ。もし、個人の選択に由来しない生来の資質の格差が個人の運命を決定してしまうのなら、その魅力は失われ、説得的ではなくなってしまうだろう。むしろ、我々が必要としているのは「資質の格差を吸収し、� �欲を反映する」平等の構想ではないのだろうか?
結局、機会の平等も結果の平等もそれだけで独立した平等の構想を提供してはいないのだ。実際に、この両者のうちの一方のみを追求している国家はほぼ存在しないし、そもそもそれは不可能だ。人々の意欲を確保しない制度はまともに成立しないし、かといって、なんらかの財の再分配を行わない制度もまた受け入れがたい。これらをどう組み合わせるべきか、という問いに対して「機会/結果」という枠組みは全く答えを与えてはくれないのである。
3:厚生(幸福)の平等と資源の平等
このような実質的平等の分類に代わって近年採用されるようになりつつある分類が厚生の平等と資源の平等、という考え方である。上で指摘したように、財や所得の再分配が必要であることを正面から認めたうえで、「� �が平等になれば、ある所得の再分配方式が適切だといえるのか」を考えようとするのである。
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厚生(幸福)の平等の概念
厚生の平等、という考え方は、人々の厚生(welfare幸福とほぼ同義だと考えてよい)を平等にするように財や所得の再分配をしよう、と考える。この考え方の利点は、障害者などに対する福祉をうまく説明できる点である。障害者に健常者と同量の所得分配を行っても、障害のせいで厚生が健常者よりも低い場合には、それを補うだけの更なる分配を行えるという立場をとることができるからである。
結果的に分配される財の量は不平等になるが、人々がそれらから得る厚生は平等になる。人々が平等の厚生(幸福)を得ているならば、仮に財の分配量が不平等でも、他者に対する嫉妬・羨望は起こらないはずだと考えられる。また、大きな意欲を持ってある生産活動に多くのコストを投入した人は、他の事ではほぼ同条件ではあるが、生産活動に少なくコストを投入した人とのコスト差を、より多い分配量で埋め合わせてもらえる。したがって、分配量が大きければ、より自由に財を処分する余地が生じるので、多くの人はこれを好み、意欲の問題も解決される。(多少の厚生の不平等を認めてでも、それで確保される意欲によって「パイ」がある程度以上に大きくなり、それを分配する方が社会の各人の厚生を増す場合、その方� �よいだろう、という修正的な立場もある。)
「高価な嗜好」という問題
しかし、この厚生の平等には、「高価な嗜好」という問題があることが知られている。食物に対して、美食に慣れている人は粗食に慣れている人よりも、味覚の厚生を味わうコストが高い。従って、食の嗜好だけが異なる二人の個人に対して、厚生の平等のためには美食に慣れている人に多くの財を分配しなければならないことになる。痛風にでもなれば更に分配がいることになるだろう。だが、障害ならばいざ知らず本人の自由意思で形成された「高コスト体質」を理由にになぜ多くを分配しなければならないのか。自業自得ではないか、というのだ。(有力な反論もあるが、ここでは立ち入らない。)
資源の平等の概念
これに対して、資源の平等という考え方もある。これは、人々が厚生を得るための手段としての資源を平等に分配しようとする方法だ。与えられた資源でどれほどの量の大きさの幸福を実現するかは個人の裁量の範囲として、その結果生じる厚生の不平等は是認する、という立場である。この立場には確かに上で述べた「高価な嗜好」の問題は存在していない。人々は手持ちの資源でより大なる厚生(幸福)を手に入れようとするので、意欲も確保される。この資源には、貨幣はもちろん、教育機会なども含まれる。
障害者についての問題
だが、この資源の平等には、障害者に対しても同量の資源を割り当てておしまいにしてしまい、結局は彼らを不幸におとしいれるのではないか、という批判がある。色々複雑な反論があるのだが、ここでの資源には身体的能力などの個人の資質も含めることができる、と考えるのがわかりやすい解決だろう。
身体能力も我々が幸福を獲得するための資源であることには変わりがないからである。そこで、障害者の身体能力という資源不足を貨幣などで補う福祉政策が正当化されるのである。(実際には「仮想保険市場」などといった概念を用いた、より緻密な議論で福祉が正当化される。)
これらの平等構想のうち、どれがもっとも説得的かについてここでは立ち入れないが、どれも完全な解答を与えてくれるわけではない。その吟味は読者に委ねられる。
4:正義と平等の密接な関係
「機会の平等」とは「機会が平等ならば結果がどうであろうとそれは正しい」という主張である。つまり、これは財や資源の分配に関して何が「正しい」かを主張する正義論でもあることになる。これは偶然ではない。冒頭で触れたように平等と正義は概念的に密接な関係を有するからだ。
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実質的正義は平等と一致する
形式的正義は「等しきものを等しく」といい、形式的平等は「異なるものをも等しく」と主張する。実質的正義は、この形式的正義に「等しさ」の具体的な基準を補ったものだ。つまり、実質的正義は自分が主張する基準以外での人々の違いを考慮せず扱う、ということなのだ。これは形式的平等の「異なるものをも等しく」という定式と一致する。つまり、実質的正義を論じることは平等を論じることと常に同じなのである。正義も平等も「正当な理由がない限り法は人々を等しく扱わなければならない」という要求の両面をあらわすものなのだ。正義は「正当な理由」を問題にし、平等は「どう扱うか」を問題にしているのである。
平等の限界
こう考えると、平等の限界も見えてくる。なぜなら、「正当な理由」があるならば、「等しく扱う」ことを断念しなければならないこともありうるからだ。つまり、どこまで平等に扱うべきかは、正義論によって論じられる問題なのだ。「正当な理由」を無視して平等原則を適用することは不正であり、「悪平等」となるのである。
5:自由と平等
「自由と平等は衝突する」としばしば決まり文句のように言われている。だが、具体的にどのような平等がどのような自由と衝突しているのかをその人々に問うと、とたんに口ごもることも少なくない。確かに、平等と自由は衝突するように見えることがある。しかし、どちらが優越するかを事前に単純に割り切ることはできない。その時々に、どちらを優越させ� �ことが正当化できるかを考えていくしかないのだ。
自由は制限されてよい
これまで見てきたように、「機会の平等」ですら「機会」という資源の一定の再分配を伴わざるをえない。もちろん、再分配するにあたっては国家が人々の所得の扱いに介入せざるを得ない。その意味で、自由を「国家に介入されないこと」として捉えるならば(このような自由の捉え方を「消極的自由」という)、あらゆる平等はの自由の侵害を伴わざるを得ない。しかし、正当な理由を伴っていれば、自由は制限されてよいのは明らかである。たとえば、殺人を行う自由は認められず、人々は法を通じて国家が介入することを是認する。だとするなら、平等が自由を制限する正当な理由となる、ということだって、あり得るはずである。
二番目に最悪の判決―自由至上主義
自由と平等の衝突が問題とされた有名な実例を挙げよう。20世紀にはいってまもなく、アメリカでは相次いで最低賃金や最長労働時間を定める労働法が制定された。ニューヨーク州もパン職人に対する最長労働時間法を定めた。制定の動機は明らかに耐え難いレベルの経済的不平等を解消するため、という平等主義的なものだった。この法律に対し連邦最高裁は契約の自由と職業選択の自由を侵害し、違憲であると判示した( Lochner v. NY ,1905)。労働者にとって、苛酷な職業を選択する自由を保障されることと、労働法が制定されて一定の厚生が保障されることのどちらが好ましいものだったかにはさほど疑いがないように思われる(全くないとは言わないが)。
この判決は、立法府が経済的平等が経済的自由に優越するという判断を下して制定した立法に対し、その判断を自由至上主義的に真正面から無視したことで米国裁判史上で二番目に最悪の判決としても名高い(一番目は「奴隷は人間ではなく所有物である」と宣言した Dred Scott 判決である)。この例を見れば分かるように、自由のほうが平等より望ましいことは決して自明のことではない。
平等は自由より基本的
ある行為をすることが国家によって妨害されないからといって、その行為をなすための(金銭などの)資源を持たず、行使可能性を全く持たない者には、そのような「消極的自由」は何の意味も持たない。そのような者に対し、自由の行使可能性を与えるためにこそ、平等理念は用いられうる。例えば、資源の平等を自由の行使可能性の平等、として考えることも可能なのである。自由と平等は見かけほど対立しているわけではない。むしろ、自由を有意味なものにする基盤を平等理念が提供しているという意味では、平等は自由より基本的な価値なのである。
6: Affirmative Action (積極的差別是正措置)
平等を議論するときのいわば「応用問題」として最後にアファマティヴ・アクションを取り上げ、議論の前提となるべき事実を知識として提供しておきたい。アファマティヴ・アクション自体の是非についてここで立ち入って論じることは紙幅の関係上、不可能である。
アファマティヴ・アクションとは何か
知ってのとおり、長期にわたる人種差別によって経済的・社会的不平等の再生産が生じているために、アメリカに於ける黒人の階層間移動は法的な差別撤廃後も非常に困難であった。これに対してアメリカの各大学は(特にロースクールやメディカルスクール)このような不平等の再生産を断ち切るために積極的差別是正措置として、人種を基準にした入学優遇措置をとってきた。
最高裁での判決
これに関する有名な事件として Bakke(バッキー)事件がある。カリフォルニア大学のメディカルスクールは積極的差別是正措置として、入学者数に少数被差別者集団割当枠を設けていた。この制度によって、黒人志願者は白人志願者に比してはるかに低い点数で入学が許可されていたのである。この制度の下で不合格とされた白人志願者バッキーは、自分が黒人であったなら入学が許可されていた点数だったため、自分の不合格は人種の差異のみに基づいた人種差別的なもので違法である、として大学を訴えた。連邦最高裁はこの主張を認め、違憲判断(合衆国憲法修正第十四条「法の下の平等な保護」違反)を下した。ただし、ここでの違憲判断は定数割当制度(Quota)に向けられており、入学者の人種的多様性を確保するためにいわば「特記事項」として人種的差異を合否� �定の考慮に入れること自体は合憲とされた。
この判決は基本線として積極的差別是正措置を認容したものとみなされ、他の大学でも定数割当制にならない形で運用されてきた。最近でもミシガン大学の積極的差別是正措置について連邦最高裁によって合憲判断が下された(2003.6 但し、定数割当制とみなされた部分については違憲と判示した)。法廷に意見書を提出してまでミシガン大学の制度に批判を明言してきたブッシュ大統領も、この決定を尊重する旨を(渋々ながら)表明したのである。
逆差別か?
これらの制度について最もよく言われる批判は「逆差別だ」というものである。確かに、 Bakke 事件にみるような定数割当制度では人種のみが合否を分ける要素になっていることが否定できない。黒人の側からも「あいつはAAで入学したから(卑怯者だorそれほど優秀ではないに違いない)」という差別の口実を却ってつくりだしてしまうことになる、という批判がなされている。この制度によって、自分の能力以上の教育機関に入学してしまう方が本人にとって有害である、という議論も存在する(これについては統計的調査によって否定的結果がでているが)。
不正な差別によって生じた再生産的不平等を解消するために、人種を考慮する「差別」は許されるか、という問題として考えたときに、平等論者の中でも意見は分かれる。「資源の平等」なり「厚生の平等」なりといった、人種に依存しない平等政策を推し進めることで不平等の再生産を断ち切るべきであり、人種を基準にした疑わしい措置に頼るべきでない、という立場もあるし、人種という代理変数ではなく、経済的状態などの直接的要因を真正面から考慮すれば済む、という考え方もある。ただし、不平等解決策としてのAAの評価はともかくとしても、現状の再生産的不平等が何らかの平等主義的施策によって解消されなければならないことだけは確かであるし、その点から言えば、AAを代替できるような現実的施策を考� ��ることは容易なことではないだろう。
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