07/02/11 04:58
大陸横断鉄道の建設(その三)西から建設を進めるセントラル・パシフィック鉄道は、1863年の1月はじめにサクラメントで鍬入れ式を催して建設の第一歩を踏み出した。ジュダのそれまでのルート探索の努力に4人組の熱意が加わり順調な歩み出しだった。
それにひきかえ大勢の投資家で構成されていた東側のユニオン・パシフィック鉄道は、意思統一もままならず鍬入れ式はその年の暮れだった。
カリフォルニアの人々の関心が高い理由は明らかだった。それまでの陸路であったカリフォルニア・トレイルは、ミシシッピー川からでも半年の行程で、冬は積雪のために遮断されてしまう。その上、途中の厳しい自然やインディアンの襲撃などで命懸けの旅だった。
南アメリカを回航する海路は、マゼラン海峡の難所を越え、飲料水や食糧に苦労する同じく苦難の旅であった。
最も短期間に東海岸に辿り着くのは、運河が存在していなかったがパナマを陸路横断して船を乗り継ぐコースだった。しかしこの方法も乗り継ぎに長期間逗留したり、熱帯地帯に当時蔓延していた黄熱病に伝染する危険が高く命を落とす旅人も多かった。
鉄道が貫通すればそれまでの苦労や危険がなくなる。工事の開始は地元の人たちにとっては大変な朗報であったわけだ。
建設に向けて順調な歩みを始めたように見えるセントラル・パシフィック鉄道だったが、鉄道完成後の旅客や貨物の運送による収益を夢見るジュダと、建設工事代金から手っ取り早く投資を回収しようとする4人組の思惑の違いが次第に表面化し始め、当初の足並みが乱れ始めた。
セントラル・パシフィック鉄道は法律で認められた鉄道運営会社だったので、建設工事を請け負う会社が別に設立され、クロッカーがその責任者に就任した。
表面上は独立した会社だが、残りの3人も株主に名を連ねていて実質的には同じ会社だった。この工事会社が法律で定められた工事代金を鉄道会社から受取るため、経費を抑えたり低級の資材を使用してコストを低くすれば膨大な利益が工事会社に落ちることになる。
しかも4人組は更に別会社を設立し、鉄道の予定地に沿って荷馬車の道路を設けて、当時、鉱山開発で賑わうネヴァダ地方との間の資材運搬でも金儲けを企むようになった。
鉄道設備に十分な金を投入し立派な路線を敷設しようとするジュダにとっては4人組の金儲け主義は受け入れられないものだった。
鉄道建設を再び自己の管理下に置こうとして、ジュダは東部の投資家に4人組の持分の買収を持ち掛けた。この投資家は既に東部の鉄道建設で巨額な財産を築いていたコーネリアス・ヴァンダービルトであったともいわれている。
その折衝のため、セントラル・パシフィック鉄道の最初のレールが枕木に固定されたのと同じ時期の1863年の晩秋、ジュダ夫妻はパナマ地峡経由の船便でニューヨークに向かった。ところが乗り継ぎの船待ちで留まったパナマ地峡で雨に打たれたジュダは黄熱病に感染し、ニューヨークに到着直後に死んでしまった。37歳だった。
後に完成した鉄道はジュダが現地を訪れて決めたドナー峠を通っていて優秀な鉄道技術者であったことを証明している。政府や議員への並外れた熱心な工作と、実地を調査して作成した信頼できるその計画書によって鉄道法が実現し、大陸横断鉄道の建設には大きな貢献をしたが、建設が始まったばかりの段階で世を去り、4人組のような財と名声を築くことはなかった。
1863年7月に成立した鉄道法に従って東部に設立されたのが、先に述べたユニオン・パシフィック鉄道だった。民間人によって起業されたセントラル・パシフィック鉄道とは対照的に連邦政府が設立発起人で、設立時には163名もの委員を政府が任命した。しかし南北戦争が膠着状態に陥り鉄道の建設どころではなかったからであろうが、顕著な動きがないまま1年が� ��った。
1863年9月、それまでに10パーセントの株を購入し大株主になっていた1820年マサチューセッツ州生まれで医者の資格を持つトマス・デュラントが株主総会を招集し、翌月それまでの役員を全員罷免して自らが副社長に就任した。こうしてユニオン・パシフィック鉄道は再出発した。
しかし、路線予定地の選定調査は進められたが敷設工事は1865年になっても着手されず、時の大統領リンカーンが事態の打開のために声を掛けたのが、マサチューセッツ州に移住した最初の家族のひとつといわれる名家で、スコップなどの建設資材の製造・販売で財を成したエイメス家のオークス・エイメス連邦下院議員だった。大統領の介入もあってユニオン・パシフィック鉄道の社長に弟のオリバー・エイメスが就任した。
もうひとり重要な役割を果たしたのが、技術者で南北戦争中は連邦軍に志願し中将の資格で軍用の鉄道建設や修理に活躍したグレンビル・ドッジだ。
1831年ボストンの近郊に生まれたドッジは、私立の軍人養成大学で工学の学位を取り、「イリノイ・セントラル鉄道」での路線調査の仕事をきっかけにして常に鉄道に関係してきた。南北戦争前にはミシシッピー・ミズーリ鉄道の鉄道技術者として、プラット川に沿ったロッキー山脈に向かう将来の鉄道敷設のルートを調べている。その当時から大陸横断鉄道はネブラスカ地方からプラット川に沿って敷設されるべきだと主張していた。
南北戦争では鉄道は既に部隊の移動や補給の輸送に利用されていて、その新設と敵に破壊された路線の修理が戦局を左右するまでになっていた。ドッジの活躍は北軍の勝利に貢献し、グラント将軍やその直属の部下であったウィリアム・シャーマン将軍などの高官の認めるところとなった。
1866年、軍を退役したドッジは連邦下院議員に選出され、後に大統領に就任するグラントとは政治家としても関係を持ち続けることとなった。
この同じ年にそれまで度々にわたって入社を勧誘していたデュラント副社長の要請を聞き入れてドッジはユニオン・パシフィック鉄道に技師長として入社し、大陸横断鉄道の建設に直接関与することになった。
ドッジは元上官からも大きな支援と便宜を得て建設を進めた。ワンマンのデュラント副社長とは確執を生んだが、ユニオン・パシフィック鉄道完成の最大の貢献者となった。東西から敷設された軌道がユタ州の北東部で初めて合流した際の記念写真の中央に写るのがこの人だ。
大陸横断鉄道が完成した後もドッジは各地の鉄道事業に携わって、1916年にユニオン・パシフィック鉄道の起点の近くに構えた自宅で亡くなるまでに調査に携わった総延長距離は10万キロに達した。
(下記の最初の写真は鉄道のルート、二枚目がジュダ、最後が東西からの軌道が連結した瞬間を示す有名な写真で、中央左がドッジ。歴史に埋もれたこのような貢献者に熱いものを感じますね。資料:Arthur King Peters著「Seven Trails West」Abbeville Press社刊より)
続く
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07/02/08 23:05
大陸横断鉄道の建設(その二)ひとりのエンジニアと四人組の夢
パシフィック鉄道法案の成立には新興州のカリフォルニアが牽引車となったが、それには壮大な夢を追う男たちの活躍があった。
法律の成立に貢献したのは、カリフォルニアに住む年若い技術者セオドア・ジュダだった。 ジュダは1826年、コネティカット州ブリッジポートで牧師の家に生まれた。牧師になるはずだったが、父親の死後しばらくの間通った技術学校で触れた鉄道技術に興味を抱き、ニューヨーク州のスケネクタディとトロイを結ぶ鉄道会社に就職した。この頃は東部の各地で鉄道が敷設されていた。
どのように多くの人々は、国会議事堂で働く
1852年にそのひとつである東部と五大湖を結ぶ「ナイアガラ・フォールズ・アンド・レイク・オンタリオ鉄道会社」が設立された。
ジュダは技師として採用され、周囲の否定的な意見にもかかわらずナイアガラ瀑布の直ぐ傍を通る軌道を完成させた。この線路は現在もその姿を残していて、ナイアガラの滝を訪れる観光客も目にすることができる。こうしてジュダの名が鉄道関係者に知られることになった。
1854年、金鉱ブームが去ったカリフォルニアのサクラメントでは、地元産業の振興のために太平洋に面した港町のサンフランシスコを結ぶ鉄道建設が事業家たちによって計画された。
サクラメントはカリフォルニア州の州都だが、内陸に位置し、当時注目され始めた中国や、黒船騒動で開国したばかりの日本との貿易には不向きだった。
招かれて敷設ルート設定の責任者に就任したのがジュダだった。この会社が1855年にミシシッピー川以西で最初の鉄道を敷設した「サクラメント・バレー鉄道」である。
ジュダはこの比較的容易な敷設工事に関与している間に、それ以前より暖めてきた大陸横断鉄道の構想の実現化に向けて歩み始めた。
1857年1月、ジュダは大陸横断鉄道建設計画案を自費出版して中央政界の有力者や政府の機関に訴え掛けた。
ジュダはこの建設計画を一部の投機家の利益に帰する民間の事業ではなく、連邦政府が深く関わる国家事業にすべきと考え、その資金は広く国民から募り収支もガラス張りで公開することを強く主張した。
そしてそのルートとして、アメリカの中央部を流れるミシシッピー川の支流であるプラット川沿いに西進し、モルモン教徒が開発中の後のユタ州を通ってサクラメントに至る、オレゴン街道のカリフォルニア・ルートを推奨した。
ジュダは首都での反応が冷やかなのでカリフォルニアに戻り、西海岸の政界に訴えることを試みた。
その結果、1859年9月にサンフランシスコにおいて、アリゾナからオレゴン、ワシントンも含む西部地方の有力者の集まりを企画することに成功し、カリフォルニア州とオレゴン地方から総額2千万ドルの資金で、シエラ・ネヴァダとカスケード山脈を越える鉄道建設の賛同を得た。
この結果を持って再びワシントンを訪問したジュダは、地元選出の国会議員の協力も得て年末には第15代大統領のジェームス・ブキャナンにその案を披露する機会を得、その後は東部の主要都市を訪問して支援を訴えた。
その積極的な活動は広く知られるところとなり、今日のロビイストの先駈けとなった。しかしジュダの活動にもかかわらず首都では国有地の割譲や建設資金の捻出に欠かせない政府の具体的な法案が成立しないまま翌年を迎えた。
1860年カリフォルニアに一旦引き揚げたジュダは、友人の案内でシエラ・ネヴァダ山脈のドナー峠を訪れた。アメリカの東部からカリフォルニアに陸路で到達するには、この太平洋岸に沿って走るシエラ・ネヴァダ山脈を越えねばならなかった。
アメリカを南北に走るロッキー山脈が、アラスカを除く米国内では最も標高が高いと考え勝ちだが、実はこのシエラ・ネヴァダ山脈に4千メートルを越える最高峰が聳えている。冬は豪雪で、鉄道が完成するまでには多くの凍死者を出した難所だった。
そのシエラ・ネヴァダ山脈を東西に横切る上で好都合な峠がこのドナー峠だった。以前にこの地で遭難し凍死したドナー家一行の名からこう呼ばれていた。
これこそ東部への鉄道のルートであると確信したジュダは、直ちに「セントラル・パシフィック鉄道会社」の設立起案書を作成し投資家を募った。直ぐには投資する者が現れなかったが、翌年の1月にサクラメントで雑貨商を営むコリス・ハンティントンに会うことができた。
ハンティントンは1821年コネティカット生れで、ニューヨークで兄の経営する雑貨商に勤めていたが、1848年カリフォルニアの金鉱発見のニュースが伝わると直ちにカリフォルニアに渡った。
しかし賢明なこの商人は、途中のパナマで持参した商品の価格が高騰したのを幸い売り払い、それで得た多額の利益を懐にして西海岸に到着した。
金鉱探しには目を奪われず、もっぱら採掘道具や資材を扱い堅実に事業を伸ばしていた。
シエラ・ネヴァダの東側に達する馬車道の建設や大陸横断の電信事業には出資したハンティントンも、多額の投資が見込まれるジュダの鉄道建設計画には単独では出資出来ず、そこで商店の共同事業者だったマーク・ホプキンスに相談した。
ホプキンスは1813年オンタリオ湖に面したニューヨーク州の町で生まれ、商店の会計係を勤めている時にゴールド・ラッシュを知り、南米周りの航路でカリフォルニアに上陸した。
1850年にはサクラメントに商社を設立、その後移転した先の隣りで商店を経営していたハンティントンと共同事業を組むようになった。ホプキンスも投資に賛同して、次に声を掛けたのがレランド・スタンフォードだった。
スタンフォードは1824年ニューヨーク州オーバニーに生まれ、ウィスコンシンのミルウオーキー近郊で弁護士業を開業後、1852年にカリフォルニアに渡ってきた。
当初は短期間で東部に戻る考えだったスタンフォードは、兄の営む雑貨商で小金を稼ぎ、それを鉱山に投資したり賃貸家業に関わっていたが、やがて事業家として資産を成すこととなった。
カリフォルニアに永住する決意をしたスタンフォードは、次に政界に進出し州知事に選出された。
前身のウィッグ党が中心になって他の党派の同調者を交えて誕生したばかりの共和党は、有力な州になりつつあったカリフォルニアと東部を結ぶ大陸横断鉄道の建設を積極的に支持していた。スタンフォード、ハンティントン、ホプキンスは共和党のカリフォルニアにおける支持者でもあったのだ。
この3人に加わったのが、ニューヨーク州トロイ出身のチャールス・クロッカーだった。
1823年生まれのクロッカーは、1837年の恐慌で父が経営する酒の卸業が破産すると、一家と共にインディアナに移住したが農業には興味を抱かず、ゴールドラッシュを耳にすると既にカリフォルニアに移住していた兄を頼って陸路を横断して渡ってきた。
採掘用の資材を扱う商店を経営して成功し、1855年にはホプキンスと共にサクラメント市の評議員に選出されている。
それぞれ地元で事業に成功したこの4人が投資に踏み切ったことでジュダの計画が実現に向けて動き出すこととなった。この4人は鉄道の敷設が完成するまで協力を続け、「4人組」の名を後世に残した。
ハンティントンはオレンジ郡の海岸沿いの町の名で現在も残っている。
同じく財を成したクロッカーは多額の遺産を残し、その名を冠した銀行が存在する。
ホプキンスの名はサンフランシスコの高級ホテル名で記憶されている。
4人の中ではエリート校で知られる大学名のスタンフォードが今日では最も有名であろう。 連邦上院議員に選出された1885年、その前年に15歳で死んだ息子を偲んで設立した短期大学が今日のスタンフォード大の前身となった。
一説では、息子が在籍したハーバード大学への記念基金寄付を望んでいたスタンフォードが、基金の申し出はよくある話しだと真剣に取り合わない大学当局に失望して、自らの学校を建てたそうだ。
東部のエリート社会には西海岸の成り金としか写らなかったのだろうが、大学当局の態度が違ったものであったら、今日のスタンフォード大は存在しなかったことになる(この逸話はハーバード大学のHPにも掲載されています)。
4人に他の投資家を加えて発足した「セントラル・パシフィック鉄道」は、その技師長に就任したジュダを1861年の秋に首都のワシントンに派遣した。ジュダの熱心なロビー活動の結果、翌年に成立したのが「1862年鉄道法」だった。大陸鉄道建設に熱心だったリンカーンが署名している。
関係者の妥協の産物であったこの法律には幾つかの重大な欠陥があって、その後も修正を重ねることになるが、4人組が経営する「セントラル・パシフィック鉄道」の存在が公に承認されると共に、ミシシッピー川西岸から西に向かって鉄道建設を委託される、もう一社の「ユニオン・パシフィック鉄道」がこれを契機に誕生し、2社による東西からの鉄道敷設が実現する歴史的な法律となった。
この民間の企業が建設を競い合うことで、驚異的なスピードで大陸横断鉄道が完成した。少し遅れて建設が始まった、帝政ロシア政府の手によるシベリア横断鉄道が、膨大な数の農奴を強制労働に投入したにもかかわらず、工期の遅れで完成が世紀をまたがった事例と好対照をなしている。
続く
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07/02/06 23:37
大陸横断鉄道の建設(その一)鉄道建設計画
ジョージ・スティーブンソンが開発した蒸気機関車「ロケット号」がイギリスで試運転に成功したのは1829年のことだった。
ところがアメリカではその翌年の1830年に、わずか18マイル(およそ30キロ)ではあったが、「ボルティモア・オハイオ鉄道」が最初の機関車を走らせ、翌年2号車を就役させた。
1833年にはサウスカロライナ州の港町チャールストンを起点にした路線に初の国産機関車が走った。この鉄道の延長距離は200キロに及び当時の世界最長を誇った。アメリカは鉄道に対して異常な関心を寄せたのだった。
1号機の機関車が走った1830年には驚いたことに大陸横断鉄道の構想さえ出ている。
1840年代にはアメリカ国内の鉄道敷設の総延長距離はおよそ5千キロに達して、世界では飛び抜けて鉄道に依存する国になった。南北戦争の直前には世界のおよそ半分の鉄道網がアメリカ、特に北部に存在した。
1845年に第11代大統領にジェームス・ポークが就任すると、この大統領はテキサスやオレゴンの領土併合を政策に掲げ、太平洋岸に達する鉄道の建設に関心が集まることとなった。
連邦議会に大陸横断鉄道建設を求める法案が最初に提出されたのは1845年3月だった。これはニューヨーク州選出の下院議員が道路・運河建設委員会に提出した案で、原案はニューヨーク市の貿易商アサ・ウィトニーが記したものだった。
1837年の恐慌で破産したウィットニーは中国に渡って資産を成すと、アジアとの通商には西海岸への鉄道が不可欠と主張してこの構想を創りあげた。
自らが建設することを訴えたこの構想では、建設費として5千万ドル、そして建設中の維持費には1,500万ドルが必要で、沿線の国有地の払い下げで得た資金を経費の一部に充てることを推奨していた。
ウィットニー自ら西部でのルート調査を行ない、その結果を議会に提出したその熱心な訴えは多くの関係者の関心を呼び起こして、1848年の議会にはウィットニー案を含めて四案が出された。
ウィットニー案は既設の鉄道網を利用してニューヨークから五大湖を結び、西海岸へのルートは州に昇格したばかりのウィスコンシン州のミルウォーキーを起点にしていた。
北部の利益に帰するこのルートに反対して、カリフォルニアへのルート探索で名を成したジョン・フレモントの義父で、ミズーリ州出身の大物政治家トマス・ベントンが、ミズーリ州からカンサス、ロッキー山脈の分水嶺であるサウス・パスを経由する大陸中央部のルートを、そしてテキサス州からは、サム・ヒューストンがメキシコ湾に面した港町ガルベストンからニューメキシコを通ってカリフォルニアに抜ける最南端のルートを主張するなど、沿線の利害への思惑も絡んで議論が沸騰した。
そうこうしている間にウィスコンシン州に続いて西隣りのミネソタが準州に認められるようになると、中西部北部への移住が急増して、ウィットニー案の根底にあったフロンティアの廉価な国有地を移民に払い下げて資金を捻出する構想が頓挫し始めた。
それに加えて、1856年にはミズーリ州のミシシッピー川西岸に鉄道が敷設され、またこれに先立ちカリフォルニア州には西部で初の鉄道会社が創業するなど、大陸横断のルートが決定されないままローカル線の建設が着々と進んだ。
イリノイ州ではウィットニーが最初に提案した国有地の払い下げによる鉄道が初めて敷設され、ウィットニー構想の正しさは証明されたものの、南北戦争前夜のアメリカでは南北勢力の拮抗と中央政界の政争に阻まれて、結局ウィットニー構想は日の目を見ぬまま頓挫してしまった。
ウィットニーは大陸横断鉄道が開通してから3年後の1872年に75歳で病死しその名は忘れ去られてしまったが、その構想が大陸横断鉄道に及ぼした影響は大きい。
大陸横断鉄道がその沿線に及ぼす効果の大きさが認識され、ルート選択の議論が盛んになるにつれて国としても正式に調査をしようと、議会が当時の軍長官であったジェファーソン・デイビスに路線候補の調査を委託したのが1853年の3月だった。
ミシシッピー州出身で後に南軍政府の大統領に就任するデイビスは10ヶ月の予定を大幅に超過した1855年に膨大な報告書を提出した。
報告書は、西部の自然や地勢、地下資源そして生物の生態まで含む当時としては最も詳しい観察記録だった。軍人が指揮する調査団を幾つかのコースに派遣して鉄道敷設の可能性を探っている。
最初の調査団は最も北のコースであるミネソタから北緯47度と49度の間を西に進んだ。現在のノース・ダコタ州からモンタナ州を横断してコロンビア川の上流からオレゴン州に抜けるルートで、その可能性を示唆した。
二番目のグループは北緯38度と39度の間を西に向かった。ミズーリ州からカンサス、コロラド州を貫通する大陸のほぼ中央を横断するルートだが、ロッキー山脈に阻まれて鉄道建設には不向きとの報告書を出している。
この調査隊は途中でインディアンに襲撃されて指揮官以下が殺害されてしまい、その後に編成された新たな一隊が北緯41度に沿って調査し直し鉄道敷設の可能性を報告した。
現在のネブラスカ州からワイオミング州の南部を通りユタ州を経てカリフォルニアに至るこのルートが後の大陸横断鉄道の基礎になっている。
三番目の調査隊はアーカンサス州からオクラホマ州を横断してテキサス州北部を通りニューメキシコ州を横断する、現在のインターステート・ルート40に相当する北緯35度線を踏破している。
更に、北緯32度線に沿ってアメリカの最南端のルートにも調査隊を派遣した。現在のインターステート・ルート10に当たる。後に南軍を指揮するデイビスは、この南部を通過してカリフォルニアに至るルートを軍事的にも重要視していたようだ。
この膨大な報告書は広大な西部の大部分が荒れ地であることを公表することになったが、大陸横断ルートを特定してはいないもののその可能性を示唆して建設への夢を膨らませることとなった。
大陸横断鉄道の建設は電信網とは比較にならない膨大な資金を必要とした。しかも国有地に敷設される鉄道軌道の用地や駅舎、給水などの沿線に建設される関連施設用の土地を確保するためには、国有地の払い下げを取り決める法律の制定が必要だった。議会と連邦政府の関与無しには建設推進は不可能で、そこで生まれたのが1862年の「パシフィック鉄道法」だった。
この法律は、建設を担当する二社が国からその線路敷設の予定地と沿線の一定の国有地の割譲を受けることを許していた。そして施設以外の余剰地の転売を認めていて、その転売益を建設資金に充当できる恩典があった。
更に、最低40マイルの制限付きではあったが、平坦地、砂漠、山岳地帯ごとに予め決められた工事費を40マイル完成する毎に社債を発行して調達することも認めていた。
国は社債の金利を投資家に半年毎に支払うことになっていたので、鉄道会社は30年後の満期まで無金利の建設資金を市中から調達することが可能になった。
(続く)
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07/02/04 20:53
もう一つの川中島もう一つの川中島がHPに載せられました。
よろしかったらご覧ください。
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07/02/04 16:55
赤いベンツの歴史世の中に 影響力のあった人、どういう形であれ、人々から慕われていた人・・・そういう人が その人に似つかわしくないような非業の死を遂げた時、後で調べると 悲劇が周りにも飛び火していた、なんていう話を幾つか聞いたことを思い出しました。
その中の一つは本で読んだので ちょっとご紹介します。
大統領の顧問は誰ですか?
どなたもご存知のこととは思いますが、第一次世界大戦は、オーストリアのフェルディナント皇太子が セルビア人青年に暗殺されたことがきっかけで 開戦になりましたよね。
この話は 有名ですが、この時のベンツの歴史は あまり知られていません。
暗殺の時、皇太子が乗っていた緋色のベンツ540は その後、不思議な(コワイ!)歴史を作っています。
皇太子の死後、このベンツの所有者となったポチオレック将軍は 理由は知りませんが、狂い死にしたそうです。
その後、車を譲リ受けた彼の部下スメリア大尉は、人身事故を起こした後 木に激突して死亡。
次の所有者、ユーゴスラビア知事は、その車で6回も事故を起こし、右手右足を失ったといいます。
その後の所有者、医者は事故死、オランダの宝石商は自殺、スイスのレーサーはレース中に激突死、ドイツの実業家は衝突死、ユーゴスラビアの農場主は崖から転落死。
最後の所有者は、このベンツで結婚式に向かう道で 事故死、この時 同乗していた友人と共に5人全員が亡くなったそうです。
計、16人の命を奪ったベンツと言われています。
いわゆる「事故車両」というのは、なかなか買い手がつかないものですよね。
でも このベンツは、車自体が事故を起こしたものでもなく、車そのものは立派なために 次々譲られる結果となったのだろうと思います。
が、やはり、そこで起きた 事の大きさ、しかもそれが その後多くの人の命を奪う結果となった 第一次世界大戦の引き金になった・・・・そういうことを考えると、これだけの"怨念?"を持っても 不思議はないですよね。
夏でもないのに 怖い話をしてすみません。
続きのつもりで 「青いダイヤの歴史」という記事を書きました。
怖いお話ばかり続くのはどうかと思い、私 mのブログに書いています。
よろしければ どうぞ読んでみて下さい。
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07/02/03 17:01
蘇我氏は逆臣ではなかった? 昨夜(2月2日)の10時からNHKの「飛鳥発掘が覆す大化の改新」の
『蘇我氏は逆臣ではなかった?』を観るつもりでいましたが、ビデオに撮るのを
失念してしまいました。
ようやく終わりかけた仕事にほっとしていたら、「あっ」と気づいたのですが、
ちょうど終わった直後。残念至極。
誰かご覧になりましたか? 今までの"歴史の常識"からはずれたタイトルですが、
この理論的根拠って何なのか知りたくて投稿させてもらいました。
誰かご覧になった方、教えていただけませんか?
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07/02/03 11:48
南北戦争余話 呪われたフォード劇場1865年4月8日、リー南軍総司令官が降伏し、事実上南北戦争は終戦を迎えた。
それからわずか6日後の15日夕、リンカーンは観劇中のフォード劇場で凶弾に倒れた。南部では、終戦を聞き入れないジョンストン将軍率いる一部の南軍部隊がいまだに交戦中だった。
フォード劇場では人気を博していた喜劇が上演されていた。リンカーン夫妻が劇場に到着した時には既に劇が進行していて、大統領が二階のバルコニーに着席すると、劇が中断されて観劇者が大統領を歓迎した。
大統領夫妻に同行していたのはヘンリー・ラズボーン陸軍少佐とその許婚のクララ・ハリスだった。大統領はグラント将軍や閣僚にも招待状を送ったが、大統領夫人と折り合いの良くないグラント夫人や閣僚夫人は色々と口実を理由に欠席し、同席したのはこの若い軍人のカップルだけだった。
犯人はこの劇場でもしばしば出演していた南部連合の同調者で俳優のジョン・ブースだった。観劇中の大統領の背後の扉を密かに開け、手にした小さなデリンジャー・ピストルからただ1発を発射した。その距離は4フィートで、弾は大統領の後頭部に命中した。
通りを隔てた民家に収容された重傷のリンカーンは、翌朝7時過ぎに息をひきとり、現職の大統領が暗殺された最初の例となった。
犯人が出入りの俳優であったことから、嫌疑を抱かれた劇場の持ち主のジョン・フォードは29日間監獄に収監された。釈放後劇場を政府に格安で売り渡したフォードは1894年この世を去ったが、その前年、劇場の壁が崩壊し、その下敷きになった28人が死亡する事故が発生している。
犯人のブースは近郊の納屋に隠れているところを、捜索中の連邦軍が発見し、納屋の外から連射されて死亡した。
リンカーン夫人のメアリーは大統領が存命中から既に憂鬱症のノイローゼだったが、それがさらに高じて精神病院に強制的に収容され、最期は養老院で見守る親族もなしに死んだといわれる。
大統領の暗殺現場に立ち会ったラズボーンも、その後に駐在したドイツで精神に異常をきたし、自殺を遂げている。
フォード劇場に居合わせた全員が異常な死に方をしたことになる。
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07/02/02 22:39
南北戦争余話 「フッカー(娼婦)」の語源最も広く知られた売春婦にアン・ジョーンズがいる。17歳の時に故郷のマサチューセッツ州からはるばる首都の連邦軍にやってきたジョーンズは従軍看護婦を願い出た。しかし志が通らずそのまま軍の駐屯地に居残った彼女は,将校連を相手の高給娼婦に活路を見出したのだった。
当時の軍隊は南北双方共にヨーロッパの伝統を持ち込み家族を同伴する者が多かった。洗濯や料理作りに従事する女性たちは兵士にとっても重宝だったからで、戦地にはかなりの女性が居た。だからジョーンズが将校のテントに出入りしても格別不可解には写� �なかったのであろう。
しかし、やがてその活躍振りは衆人が知るところとなって、「ジョーンズ少佐」と肩書き付きで呼ばれるようになった。連邦軍の6人の大将を相手にしていたとされる。
ナッシュヴィルといえば今日ではカントリー・ミュージックのメッカとして知られるテネシー州の州都である。まだ名もない地方の連邦軍司令官に過ぎなかった後の大統領、グラントが1862年にナッシュヴィルを占領した。
激戦で傷ついた兵士を収容した病院近辺には田舎からうら若き女性連が集まり、翌年アメリカでは初の公娼制度がこの町に設けられた。ナッシュヴィルの住民が口にしない不名誉な看板だ。
英語で娼婦は「prostitute」だが、俗語で「hooker」とも呼ばれる。
総司令官だったジョセフ・フッカー将軍率いる連邦軍の主力部隊はポトマック軍団と呼ばれた。
このポトマック軍団は、昼の戦果はリンカーン大統領がイライラするほどはかばかしくなかったが、フッカー将軍が陣頭指揮する夜間の作戦行動には全軍の精力を投入したのだった。夜の戦果が功を奏し、本人の名が普通名詞として後世に残ることとなった。
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07/01/30 01:43
リンカーンともうひとりの大統領この話は最近になって明らかにされた史実であり、おそらく本邦初公開ではないかと思われますので、少々長いですが、ご紹介します(当地発行の月刊誌Kentucky Monthlyからの抜粋とこれまでに集めた資料から作成しました)。
日本のように戸籍が存在せず、出生証明だけが唯一の手立てのアメリカだ。有名人の場合であってもその正しい血筋を辿るためには、歴史を専攻する者が膨大な関連資料を頼りに検索をしないと難しい。
そのような最近の研究の結果、リンカーンとは血のつながりはないものの、夫人の遠縁に黒人の大統領が存在したことが判明した。リンカーンはこの黒人奴隷とその母親の帰属を巡る裁判に弁護士として立ち合っている。
したがって、この黒人親子の存在はリンカーンも知っていたが、奴隷解放に貢献したリンカーンが、果たしてその黒人が他国の大統領に就任することを予測できたか、興味をそそられる。
先ず、背景になるアフリカ西部に存在するリベリア共和国から始めねばならない。この国はかっては船舶に税金を賦課しないことから、多くの船舶がリベリアに船籍を置いていた。学生時代を過ごした横浜港には、船尾に星条旗と見間違うリベリアの国旗を掲げた貨物船やタンカーが出入したものだ。日本企業の船舶の多くがリベリアに籍を置いていた時代があった。
この国の首都はモンロビアで、その名は第五代米国大統領のモンローに因んでいる。例のモンロー主義を唱えた大統領だ。外国が首都に米国の大統領の名を冠する例は他に存在しない。この例外的な措置は、モンローが大統領だった1819年にリベリア建国法に署名したからだ。
当時のアメリカでは、解放奴隷をどのように処遇するかが大きな関心を呼んでいた。多くの白人は、黒人は白人との共存には不向きな人種と見ていた。その解決策として、黒人を出身地のアフリカに送り返すことが最適な手段と考えられ、広く募金を募り解放奴隷を送り出す地をアフリカ西海岸に設けた。
現在のリベリア共和国がその地で、1824年に首都であるモンロビアが建設され、1847年にアフリカ大陸で最初の共和国が出現した。
数万の解放奴隷が海を渡った。リベリアはこの10年余内乱が続いていた。それはこのようにアメリカを後にした黒人の末裔がリベリアの指導階層を構成し、権力を濫用したからだった。内乱は奴隷の末裔が同じ黒人の原住民を抑圧する皮肉な結果だった。
さて、本題だが、リンカーンはケンタッキー州で当時最大の都市だったレキシントンの有力者、ロバート・スミス・トッドの娘であるメアリー・トッドと結婚した。トッド一家はケンタッキーでも有数の資産家で、政治にも大きな影響力を持っていた。
リンカーンは初恋の女性が病で急死してしまう悲劇に遭遇しているが、その初恋の女性とは性格も容貌も異なるメアリーと結婚し、我が強いメアリーの性格からその結婚生活は必ずしも幸せなものではなかった。
神格化されたリンカーンだが、有力者の娘との結婚には、無名の地方弁護士に過ぎなかったリンカーンの打算が働いた結果ではなかったかと思われる節がある。幸せな夫婦関係ではなかったが、結婚後、トッド家の名声もあり、リンカーンの名は次第に知られるものとなった。
リンカーンが大統領に選出される10年ほど前の1849年に死去した義父のロバート・スミス・トッドの従姉妹に、メアリー・オーウェン・トッドがいた。
このメアリーはジョン・トッドとジェーンの間に生まれた一人娘だったが、ジョン・トッドは当時バージニア植民地の付属地だったケンタッキー地方への最初の移住者のひとりで、ケンタッキーでも最も豊かな資産家のひとりだった。
しかし、メアリーが幼少の時にこの父親のジョン・トッドがインディアンとの戦いで死んだため、メアリーは2千エーカー(新宿御苑のおよそ20倍の広さ)の土地と財産を相続した。ケンタッキー州で最も富豪の女性と呼ばれたほどだった。
このメアリーと夫であるジェームス・ラッセル大佐の間に生まれたのがジョン・トッド・ラッセルだったが、この父親であるジェームスはジョンが2歳の時に死んだ。その後、資産家の母親の手で育てられたジョンは、性格も優れた優秀な青年に成長し、当時既にエリート校として知られたプリンストン大学に入学した。
そのプリンストンの学生だった1816年の秋、故郷に帰ったジョンは、再婚していた祖母のジェーンの邸宅で過した。その邸宅には当時の資産家の常として多くの奴隷がいて、そのひとりだった若い女性のミリーと恋に陥ってしまったのだ。
このミリーが身ごもったのが、1883年にリベリア共和国の大統領に就任したアルフレッド・フランシスだった。誕生は1817年だったから就任したのは66歳だったことになる。
アルフレッドは白人と見間違うほど肌の色は白かったといわれる。しかし、白人との混血であっても奴隷には変わらず、リベリアに渡るまでには数々の辛苦を経験している。
アルフレッドの父だったジョンも若死にしてしまうが、死の直前にアルフレッドを自らの息子と認知して、財産の相続と共に身柄を母親のメアリーに託した。メアリーも息子の遺言に従って家族並みにアルフレッドとその母親のミリーを遇したが、メアリーの再婚相手だった夫のロバート・ウィック・リフが、財産分与に不満を持ち訴訟を起こした。
当時のケンタッキーの州法では、再婚した夫に夫人の財産も移ることになっていた。奴隷は財産として財産税の対象になっていたが、財産としての価値のかなりの割合を占めるのが常だった。
結局、この訴訟に負けたメアリーは1,200ドルもの大金を払ってミリーとアルフレッドの身柄を買い戻している。
この身内での訴訟事件にトッド側の弁護を努めたのが、メアリー・アンの夫だったリンカーンだった。
アルフレッドは大統領に就任した翌年の1884年に死去した。67歳だった。黒人の平均寿命が50歳に満たない当時としては長寿だったことになる。
リンカーン夫人のメアリー・アンは、大統領の死後ノイローゼが高じて精神病院に収容される不幸な晩年を過ごし、アルフレッドが大統領に就任する前年に死去している。アルフレッドより一歳若かったから65歳だった。
因みに、リンカーンのふたりの息子は若くして病死しているが、生き残った唯一のロバート・リンカーンは、寝台車などの鉄道車両メーカー大手だったプルマン社の社長として活躍した。母親のメアリー・アンを精神病院に隔離したのはこのロバートといわれている。
当地から小一時間の距離にあるリンカーン記念国立公園内の資料館に、リンカーン家の家系図が掲載されている。戸籍が存在しないことから他の有名人の例に漏れず、リンカーンの末裔も行方不明と記されている。
唯一の例外に、遠縁の末裔にアカデミー賞受賞の男優、トム・ハンクスがいる。リンカーン記念公園にも多額の寄付をし続けているそうだ。
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07/01/28 18:22
羽衣天女
ご存知の方もいらっしゃるでしょうか。
写りが悪く、見難くて 大変申し訳ないですが、この 「羽衣天女」は、1890年(明治23年)に描かれた 本多錦吉郎(1850〜1921)の作品です。
同年開催された 第三回内国勧業博覧会に 最初に発表された時から 大きな話題を呼んだ、とされていますが、同時に 「今ノ画人」に 求められる題材でないとの厳しい批判を受けたことでも知られています。
その後、明治26年、シカゴ万国博覧会に、当初出品予定しながら、こうした批判に対する作者の迷いのせいか、出品は撤回、
以後、平成2年、兵庫県立近代美術館主催の 「日本美術の19世紀展」で公開されるまで 図版でしか知られなかった と言われています。
その頃の新聞記事の紹介で 初めてこの絵の写真を見た時、すごい衝撃を受けました。
キリスト教世界の 「天使の翼」と、東洋思想の中の 「天女の羽衣」とを併せ持った 天女。
西洋的感覚から見れば、「異形の天使」、東洋的感覚から見れば、「異形の天女」。
けれど、目の前にいる天女の姿は、その二つの世界が 見事に融合し、輝くばかりの美しさです。
足元を見れば、ずっと下界の方に 富士山が見えます。
どんな思いで描かれたものか、作者の思いはわかりませんが、何にしても この画家のイマジネーションのすごさに 感動しました。
歴史の話とは関係ないようですが、歴史を読む時も こうしたイマジネーションの力、遊び心、というと語幣があるかもしれませんが、有りそうにないものでも もしかしたら有るかもしれないと思い浮かべてみるような心が必要な時もあるのでは・・なんてことを考えて載せてみました。ほんとに写りが悪くてすみません。元の写真は 素晴しいものです。
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